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東京営業所便り【城下町を歩く】
2014年04月15日
ひところの淡い桃色の花も散り、青葉が目立ち初めてきた桜の木。次なる風物詩は、大型連休といったところでしょうか?
ところで、こちらは桜の開花よりも、だいぶ前となる3月初旬の埼玉県さいたま市岩槻区は「岩槻城址公園」
1457年、扇谷上杉氏の家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城、河越城とともに築かれたといわれる岩槻城。その岩槻城の新曲輪(曲輪 読み=くるわ)、鍛冶曲輪の辺りに、現在の岩槻城址公園はあります。現在は東武野田線岩槻駅前の『ワッツ』に所在を移した岩槻区役所ですが、旧区役所には太田道灌像もあり、築城主というよりは地域の偉人・英雄といったところかもしれません。
ところが、近年の研究結果では太田氏ではなく、小説・映画『のぼうの城』でお馴染みの成田氏の築城であるとされる見方が強まっています。となると、太田氏と対立していた成田氏ですから、これは今後の研究が非常に興味深いものとなるのではないでしょうか。 ちなみに、岩槻城天主といいますか、本丸~二の丸~三の丸の一帯は、今では地名を残すのみとなっており、この目でその痕跡を見ることは不可能といっても良いでしょう。
皇居江戸城では「お堀」というと水が張っていて、嘗ては城郭防御のために、特に平城に於いては必要不可欠とされてきたものです。なので、「空掘」と聞くと
「水がないなら土塁と変わらないのでは?攻め入る側には、困難なものにならないのでは?」
と思う方もいるかもしれませんが、『空掘』特にここ、岩槻城の『空掘』なるものは一度歩いてみるに限ります。男性の身長であっても、堀の向こうを見ることが出来ないほどに深くて、木々も欝蒼としていて、晴天の日中であっても薄暗く何なら攻城戦を想定して、空掘に向かって走ってみると良いかもしれません。転倒必至の構造となっておりますし、仮に空掘を土塁として使用したとしても、そこから先に進軍するには難しいと感じるでしょう。
そして、岩槻城址公園のランドマークといっても良いのが、園内の池に架かる『八つ橋』なる朱塗りのギザギザ形状の橋です。池には鯉も泳いでおり、空掘跡とは違い長閑なひと時を過ごすことができます。
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そして、岩槻というと『埼玉B級ご当地グルメ王「豆腐ラーメン」』も有名です。岩槻城址公園のレストランで味わうことができます。私が岩槻の知人に案内され、初めて口にしたのが、かれこれ6年前のこと。では、「豆腐ラーメン」てどんなラーメン?6年前の記憶を頼りに解説いたします。
見た目は麻婆ラーメンです。誰が何と言おうと。だけど、
「なるほど!麻婆ラーメンなんだね!」
と言葉にしたが最後、地元民に糾弾されます。もはや非国民。なので、間違っても一口目の感想として「麻婆ラーメン」というフレーズを、思ったとしても声に出してはいけません。
実際のところは、麻婆豆腐ほどのとろみはなく、味の濃さや辛さといった点でも、麻婆豆腐のそれとは少し異なります。食後は『さっぱり系ラーメン』という感想をお持ちになるかと思われます。ですが、とろみがかったスープに乗った豆腐は、やっぱり、どうしても、いくら考えても『麻婆ラーメン』なんです。
ただ、間違いなく言えることは『美味しい!』ということです。B級ご当地グルメというと、全国規模でブームになった頃もありましたが、そこで優勝するだけのことはある美味しさですので、城下町岩槻の史跡巡りと合わせてのお出かけをオススメいたします。
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『岩槻城址公園』『豆腐ラーメン』と埼玉県さいたま市岩槻区の紹介をしてまいりましたが、岩槻というと、岩槻城と並んで有名なのが『人形』ではないでしょうか?いえ、疑問符にするまでもなく、岩槻といえば人形工芸の街『人形の街 岩槻』なのです。
その『人形の街 岩槻』の歴史は、さいたま市との合併により、岩槻市がさいたま市岩槻区となるよりも遥か400年近くも昔、江戸時代初頭にまでさかのぼりまして、日光東照宮の造営、特に『寛永の大造替』に起源を持つと言われます。
寛永の大造替は、三代将軍徳川家光公の頃のことですから、寛永年間のこととなります。日光東照宮はご存知の通り、初代将軍徳川家康公の霊廟ですから、その造営にあたっては、全国から優れた工匠が呼び寄せられました。どれほどの匠たちが全国から呼び寄せられたかは、日光東照宮の陽明門など荘厳な社殿を見るに明らかです。
当時岩槻は、日光御成街道(岩槻区では現在の国道122号線)に於ける江戸から最初の宿場町であったため、寛永の大造替やその後の修築に携わった工匠たちの中に、この土地に住み着いた匠たちが多かったそうです。その匠たちが箪笥や長持などの製品を作るようになり、その中には人形づくりをする匠もいて、その技術はやがて岩槻に広まっていったのだそうです。
新版風土記によると、元禄10年(1697年)京都堀川の仏師 恵信が岩槻で病に倒れ、時の岩槻藩主小笠原長重氏の藩医の治療を受けて回復の後も岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目し、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたと言われています。
岩槻周辺は桐の産地だったので原料の桐粉が豊富で、しかも人形頭の塗装に使用する胡粉の溶解、発色をよくするために重要な水に恵まれていました。こうして恵信の残した桐塑頭の技法は、藩の武士や農家の人々の内職・趣味・兼業等によってその後も受継がれ、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり今日に受け継がれて、現在では、「江戸木目込人形」・「岩槻人形」が経済産業大臣から伝統的工芸品として指定され、生産量・生産額とも日本一の人形のまちとなっています。
(※出典:岩槻人形協同組合HPより http://www.doll.or.jp/iwatsuki_doll/)
それにしても、『人形の街 岩槻』とは見聞きするものの、京都の仏師が岩槻で病に倒れたというタイミング、岩槻が桐の産地であったという環境、戦もなく太平の世の中で藩の武士や農家の人々が内職・趣味・兼業としたという状況。そういった条件の一つ一つが、偶然にも合わさって『人形の街 岩槻』が始まったのですね。
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私が小学生ぐらいの頃でしたでしょうか。雛祭り時期のテレビCMで、『大事な人のためにと。大事な人からと。そうして手にした人形には、手にした瞬間から魂が宿ります』というフレーズを耳にした覚えがあります。
しかし、人形は手にする瞬間もそうですが、職人の手の中で造形されていくその瞬間から、命や魂が宿るものではないかと思います。
もし、職人の掌の中で命を宿し、持ち主の手に渡った時より魂が込められるものが人形であるならば、それは『「人の形(なり)」と書いて「人形」』とはいえ、一人の人なのではないでしょうか。幼い頃より成長を見守ってくれ、自分と同じく歳を取り成長した人形。そんな幼馴染か兄弟姉妹同然の人形もいつか役目を終える時が来ます。そんな時に、ゴミの日にポンと別れられるものではない存在であるのも、人が人を想えばこそです。
メモリアルアートの大野屋では、恒例となりました『人形供養祭』を2014年も開催いたします。役目を終えられました大事な人形を、捨てるに忍びないという優しい気持ちにお応えいたしたく、奈良薬師寺東関東別院潮音寺導師を招いての読経の下に丁重にご供養させていただきます。
日 時:2014年6月7日(土)
場 所:おおのやホール小平 東京都小平市美園町3-2-5
供養料:1体 500円、1箱 2000円
(みかん箱程度の縦+横+高さの合計が100cmくらいを目安とし人形は何体いれても構いません)
※ガラスケース・装飾ケースはお受けできませんので人形のみお持ちください
メモリアルアートの大野屋 人形供養祭
https://www.ohnoya.co.jp/ningyoukuyou/
ご希望の方には、開催案内をお送りいたしますので 大野屋テレホンセンター(通話無料 0120-02-8888 )にお申込ください。
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